九戸政実とは 豊臣秀吉天下統一最後の相手

ページ番号1053578  更新日 令和6年3月13日

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イラスト:戦国ダンシ九戸政実

九戸政実とは

九戸氏の始まり

九戸氏は、南部氏の始祖光行(みつゆき)の六男・行連(ゆきつら)を祖先とする南部一族で、九戸郡(現在の九戸村と軽米町)を領地としたと伝えられています(南北朝期にこの地を支配していた結城氏の総大将小笠原氏の末裔という説もあり)。

九戸政実の生い立ち

政実は天文5年(1536年)に九戸村の大名館(だいみょうだて)で生まれたと伝えられています。
成長した政実は、武将としての力量に優れ、永禄12年(1569年)には安東氏との戦いで鹿角郡を奪還、また葛西氏の勢力下にあった現在の金ケ崎まで攻め込むなど勢力を拡大したといわれています。
対等な立場でこの地方を治めてきた九戸氏と南部氏ですが、この頃より関係が崩れてきます。
南部家24代当主晴政が死去、その葬儀の帰りの際に後継者である第25代晴継(はるつぐ)が暗殺されるという事件が起きます。急遽次期後継者を決める重臣会議が行われ、北信愛(きたのぶちか)によって第26代当主は田子信直(たっこのぶなお)だと強引に決定されました。またその後には、晴継の葬儀の日に信直が襲撃されるなど、九戸氏と南部氏との対立が深まります。

九戸政実の戦い

天正18年(1590年)、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、領主の配置換えや検地などで奥州の制圧を進めますが、強引なやり方に反発した者が各地で蜂起します。
翌年、三戸城での年賀の挨拶に政実は欠席し、南部氏との対立を表明することになります。
3月になると政実と信直は本格的な戦闘状態となり、激しい攻防が繰り広げられました。政実に優位になられた信直は秀吉に援軍を要請します。
豊臣秀次を総大将に、蒲生氏郷(がもううじさと)、浅野長政(あさのながまさ)、堀尾吉晴(ほりおよしはる)、井伊直政(いいなおまさ)らの武将で編成された中央軍。その兵力は3万5千であったと言われています。
8月下旬には信直を初めとする南部軍の3万とあわせて合計6万5千の兵に包囲された九戸城ですが、政実はわずか5千の兵で籠城し、互角以上の戦いをみせます。
業を煮やした中央軍は、長興寺の薩天和尚を仲介として、偽りの和議を申し入れました。この和議に対して謀略ではないかと反対する者もありましたが、一人でも多くの一族郎党を救おうという思いから、政実は中央軍に投降します。
しかし、その後中央軍は開門した城内になだれ込み、火が放たれ、城内の者は撫で斬りにされたと伝えられています。
連行された政実は、中央軍総大将豊臣秀次の指示により、三ノ迫(さんのはざま)にて斬首されます。政実は享年56歳であったと伝えられています。言い伝えでは、斬首された政実の首は家臣が密かに地元まで持ち帰り、九戸神社近くの山中に埋めたと言われています。

これ以降、豊臣秀吉に対して組織的に対抗したものはおらず、この「九戸政実の戦い」こそ、「豊臣秀吉 天下統一最後の戦い」でした。

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