平成22年度部課長研修 知事講話

ページ番号1050005  更新日 令和4年2月9日

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とき:平成22年7月13日(火曜日)
ところ:岩手県民会館 中ホール
演題:「地域主権改革という構造改革 ―冷戦レジームからの脱却―」

知事講話 「地域主権改革という構造改革 ―冷戦レジームからの脱却―」

 皆さん、お疲れさまです。部課長研修、ご苦労さまです。今日は、この後に金子郁容先生がいらして「新しい公共」というテーマで講演をしてくださるということで、本当にすばらしいことだと思います。岩手が今まで地域経営ということでやってきたことは、新しい公共だとか、それからI援隊運動というのは、あれこそ新しい公共だと私は言っているのですけれども、それが本当にそうなのかを確かめていただきたいと思います。

 また、金子郁容先生は、コミュニティ・ソリューションという考え方を10年くらい前からいろんなところで発言していらして、特に福祉とか、教育とか、住民に身近な課題ほどそのコミュニティの場でこそ解決でき、それによってコミュニティも活性化するという論旨を主張しておられます。私の知事選挙の時のマニフェスト、二大戦略、新地域主義戦略でのコミュニティ重視という考え方も、金子郁容先生のコミュニティ・ソリューション論を参考にしていますので、いろんなためになる話が聞けるのではないかなと思います。

 私のテーマは、地域主権改革です。地域主権改革についてもいろんな説明の仕方がありますし、またこれからその中身がどんどん膨らんだり、豊かになったりしていく、そういう言葉かもしれません。今日は、この地域主権改革という言葉に最大限どれだけの中身を盛り込めるか、限界に挑戦ということで話をしてみようと思いました。すべてここ(「地域主権改革」)に入れてしまうというような話をこれからします。

 それと絡んでこの「冷戦レジームからの脱却」という、突如、東西冷戦の話が出てきて、地方自治において冷戦の話というのは、「えっ」と思ったり、「うへー」と思ったりするかもしれませんけれども、地方の時代と言われて20年30年経つのになかなかその地方分権が進まない不思議、さらにまた、日本全体の改革ということも、改革改革と言われてやはり20年近くなるにもかかわらず、なかなか日本がよくならない不思議。そういった不思議を解くために、冷戦という言葉をある意味補助線のように使ってみるとわかりやすいのではないかと思いました。補助線というのは、数学の図形の問題を解くときにこの補助線1本引くことで、「あっ、これとこれは平行だから、ここの角度は何度で、合わせると何度か」と理解が進みます。補助線を引かないと何だかわけがわからない構図が補助線1本引くことで、「あっ、こういうことだったのか」という理解の促進に冷戦という観点が役に立つのではないかなと思って、本日の話を組み立ててみました。特に鳩山内閣の下での普天間米軍基地問題について議論が混沌としていく中で、冷戦時代の考え方が未だに色濃く日本国内に強くあるなという思いを深めたということも、今日ちょっと冷戦の話もしてみようと思った理由であります。

 さて、資料として用意してある、この一種のテキスト、教科書のようなものを作ってありますので、これに沿って話をしていきます。

I はじめに

 ここに今日の話の結論と、そしてこのテキスト全体の要約を書いてあります。1990年代と2000年代の20年間、日本の経済成長はほぼゼロでありました。その間、アメリカは約2倍、中国は約12倍の経済成長を遂げています。これはものすごいことなのですね。20年前、日本はアメリカの半分以上、アメリカを10とすると日本が7ぐらいの経済力があったのですけれども、今はもうアメリカの3分の1くらいに差が開いてしまっています。中国が追いついてきたというのも、あっと驚くようなことなのですが、アメリカとの間に差がついているというのもこれは驚くべきことです。ヨーロッパ諸国との関係でもそうでありまして、ドイツのような成熟社会ですら経済成長をしているにもかかわらず、日本がこの20年間経済成長がほぼゼロ。これは、日本が近代史上経験したことがない異常な停滞であります。

 また、日本全体が一様にゼロ成長であったわけではなく、東京のように成長しているところもあります。成長しているところがあって平均でゼロ成長ということは、マイナス成長、20年前より生活や経済が落ち込んでいるところがある、ということでありまして、岩手もその中の一つであります。日本では格差社会化や地方の疲弊も進んだわけでありまして、こういう20年間というのは明治維新以来日本が経験したことがない異常事態だということを、まず確認しなければならないと思います。

 このような停滞が生じた本質的な理由は、戦後を支配してきた冷戦時代のレジーム(仕組み)から、日本が脱却できなかったからであります。対米依存、「西側の工場」としての輸出主導型成長路線、大企業とお上への依存、官僚主導の中央集権型行政とそれに便乗する政治。冷戦時代は、分断と従属の時代であり、すべての主体が「主権」を喪失していました。

 しかし、地球主義、グローバリズムの時代は、共生と自立の時代であります。グローバル外交、内発型の経済成長路線、厚いセーフティネットの上に保障される自由な経済・社会活動、地方が主舞台となる政治。このような構造への改革を実現し、冷戦レジームから脱却、真の構造改革を実現すること、それが、共生と自立が育まれる場である地方から世界を立て直す地域主権改革である。

 つまり、地域主権改革というのは、経済・社会、さらには政治・外交の分野まで、この地方から立て直していこうというもの。地方から立て直していく、それは日本の立て直しから、さらには世界全体の立て直しにもつながっていく。地域主権改革というのは、そのくらいのスケールとインパクトを持った一大事業なのではないか、というのが結論であります。

II 冷戦時代の日本のレジーム

1 外交

 さて、冷戦時代の日本のレジームということで、冷戦ということがいかに今の日本のその閉塞状況につながっているかということなのですが、冷戦というのは第2次大戦後、アメリカを中心とする西側陣営とソ連を中心とする東側陣営が、軍事的・政治的に鋭く対立した国際構造であります。アメリカによる占領体制がそのまま移行するように、日本は日米安保条約によって西側の一員に組み込まれました。

 ソ連の軍事力は極東正面においても強力であり、極東正面というのは日本海側のことで、日本の防衛力だけでは対抗できませんでした。アメリカの軍事力は日本の防衛に不可欠でした。アメリカにとっては、日本がソ連に屈してソ連海軍が自在に太平洋に進出することはアメリカ防衛上致命的であり、まして日本の工業力がソ連に利用されることは断じて許せるものではありませんでした。アメリカにとっても、日本をソ連の脅威から守ることは死活的な国益でした。日米双方が強固な日米同盟の維持を必要としました。

 ソ連というのはものすごく強い国で、極東方面にも膨大な軍事力を揃えていましたので、日本単独ではとてもかなわない。日本を守るためにはアメリカが必要という事情があったのですけれども、アメリカにとっても日本がソ連の言いなりになることは、これはもう致命的にまずいと。これは、東京大学で佐藤誠三郎教授という中曽根総理のブレーンをやっていたという、現実政治や行政に深くコミットしていた先生の安全保障という授業を受けた時の説明で、当時は非武装中立論というのが流行っていまして、第2次冷戦といわれたソ連の脅威がかまびすしくなってきて、1980年代前半ソ連脅威論が非常に高まり、北海道に上陸してきたらどうしようというようなことが非常に真剣に議論され、戦略論とかが流行っていた頃です。もし、日本が非武装中立をして、津軽海峡も自由にソ連が通過できる、しかも、ソ連が函館港や青森港に自由に寄ってそこで軍艦の修理もできる。そういうことになったら、アメリカはそうなる以前に函館、青森両港を軍事占領してソ連が通れないようにする、ソ連に使わせないようにする。占領が無理であればアメリカは爆撃して函館港、青森港を破壊するだろう、とその先生は言っていました。ソ連の軍艦が自由に太平洋に出られるようになると、一番アメリカにとって怖いのは潜水艦発射核ミサイルですね。ソ連の潜水艦からSLBM、潜水艦発射弾道ミサイルという、アメリカのどこへも核ミサイルを落とせるものが自由に太平洋に出ていくと、アメリカは命が幾つあっても足りないと。そういう事態になるくらいなら、もし日本が非武装中立なんていうことを言うのであれば、その日本を軍事占領したり、爆撃、破壊したりすることをアメリカは辞さないだろうと。それだけの覚悟があるから、日本がソ連に征服支配されてソ連の思うようにならないようにアメリカは日本を守るのだというのが、この日米安保の本質、冷戦構造の本質だということなのですね。今はその時と全然事情が違うという話はこの後でいたします。

 必要性においては、日米それぞれ必要性があって対等だったのですけれども、構造的には米ソ両超大国による世界の分断と東西両陣営内での従属的秩序を基本とするもので、日米安保体制は本質的に日本にとって対米従属的なものであった。ここで分断と従属という言葉を使っていますけれども、ちょうどこの共生と自立の対義語なので、こう整理するとわかりやすいのではないかと考えました。

 21世紀は自立と共生、それは地方自治の本旨も自立と共生と言っていいと私は思うのですけれども、この自立と共生の正反対、共生の正反対の分断、自立の正反対の従属、冷戦時代にあっては地球上のすべての主体がそれを強いられた。分断を強いられ、従属を強いられる。共生ができない、自立もできない。それが冷戦時代の基本構造と言えるのではないかということであります。

2 経済

 当時の経済、日本は経済的には「西側の工場」の役を与えられたわけです。朝鮮戦争が勃発すると、日本の工業力はフル回転し、朝鮮特需に沸きました。日本経済は工業製品の輸出能力を回復し、まずは安価な繊維製品をアメリカに大量に輸出するようになって、輸出主導型の経済成長が始まりました。日米間の貿易摩擦は対象品目を変えながら繰り返されますが、安全保障上の必要性から、「西側の工場」である日本は、アメリカを初めとする西側市場への輸出を寛容に認められました。

 「官僚たちの夏」というドラマ、貿易摩擦、繊維製品で日米貿易摩擦が起きていた頃のことで、それぞれの貿易摩擦は大変な摩擦で、当時の通産省の人とか、関係業界の人とかは大変な思いをしたのですけれども、それでもどこか最後の最後では妥協して、繊維であれ、鉄鋼、造船からテレビ、そして自動車に至る貿易摩擦のそれぞれの品目について、結局かなりの量を、日本からアメリカへ、ヨーロッパにも輸出することが認められ、日本は大いに外貨を稼いで高度成長を果たしたのですけれども、それは究極的には西側全体の利益の中で日本の工業力を活用しようという、そういう暗黙の了解、紳士協定が西側陣営の中にあって、ちょっと日本は儲け過ぎかもしれないけれども、ソ連に対抗するには仕方がない、と許されていたということだったと思います。冷戦が終わった後は、もう全然そうではない貿易環境になっているということですね。

 ちなみに、この日本経済は、明治維新期の「富国強兵」「殖産興業」以来、自国の戦争あるいは他国の戦争の軍需に依存して成長してきたのではないかと考えております。「欲しがりません、勝つまでは」という感覚ですね。平和の中で一人一人の個人の尊厳、一人一人の自由や主体性というもので、何がどのくらい生産されて、何がどのくらい消費されるということが決まっていく。そういう平和で成熟した社会の経済社会を、日本はまだ経験したことがないのではないか、という問題意識を持っています。何か戦争に直面した非常事態のようなメンタリティーの中で物を生産し、作った以上売り切らなければだめだとか、また消費についても、何か与えられたものを消費する、指令を受けて消費するのだという感覚。「欲しがりません、勝つまでは」というメンタリティーは、実は戦後もずっと続いていて、日本の社会を蝕んでいるのではないかなという感じがしております。

3 社会

 それがこの次の社会のところにあるのですけれども、冷戦下の経済成長路線も一種の戦時動員体制だったと思うのです。外貨を稼ぐ輸出産業が優遇され、資金を供給する大手銀行も護送船団的に守られ、大手メーカーの国際競争力を確保するため、下請中小企業との間の「二重構造」と呼ばれる格差が容認された。この二重構造というのは、私が中高校生の時の社会科の教科書にはしっかり載っている日本経済の大きな特徴の一つで、外国に物をどんどん輸出できる大企業がある一方で、非常に零細で弱い中小企業というものがたくさんひしめいている。そういう日本経済の二重構造、それは冷戦の下での「西側の工場」としての役割を果たすために、必要悪としてそういう構造ができてきたのではないかと思います。

 大企業は社員に「企業戦士」としての忠誠心を求め、見返りに家族ぐるみの生活・福祉を保障した。企業戦士の妻には武士の妻のような内助の功が期待された。経済成長は遂げていたが、「ウサギ小屋」と揶揄される住環境、「通勤地獄」と呼ばれる交通事情などに人々は耐えたということで、まさに「欲しがりません、勝つまでは」「欲しがりません、高度成長を遂げるまでは」「欲しがりません、物質的に繁栄するまでは」ということで、生活の質が悪くてもそれに耐えて働いていたということですね。よく考えてみると、何のために働いているのか本末転倒なわけです。何か欲しいものがあって働いた以上、その欲しいものを獲得しなければ働いている意味は無いはずなのに、でも本当に欲しいものは我慢しなければだめだというようなメンタリティーが、実は高度成長期にずっとあったのではないかと思います。

 このころは猛烈とか、根性とか、そういうドラマや漫画等が流行って、「巨人の星」も大リーグ養成ギブスとかいって全身にスプリングを子供につけさせて、ギギギギギッと特訓する非人間的極まる、非人道的なものだったのですけれども、みんな「あれはすごい、こうでなければだめだ」という感じで夢中になったわけです。私も「すごい、こうでなければだめだ」と思いながらあれを見ていました。それから、あと大河ドラマが大体高度成長の頃から始まっているのですけれども、やはり戦争の時代なのですね。戦国時代と幕末が主に取り上げられるのですけれども、そういう戦争という極限状態の中での親子関係とか、上司と部下の関係とか、人間の生き様とか。戦争だから仕方がないという感じで、ここまでやっても戦争だから仕方がない、戦争だから許されるという諦めと我慢と、それでもこれが日本人の生きる道というようなことを確認し、カタルシスを得るものとして大河ドラマというのが実はずっと続いているのかもしれません。最近女性の視点がどんどん強くなって、そういう戦いはよくない、戦争の論理でやるのはよくないという要素がどんどん増えてきて、今やっている「龍馬伝」もかなり非戦争的になってきているのはさすがだと思いますけれども、高度成長時代は特に血なまぐさいものが大河ドラマで取り上げられていたと思います。

 この時代、国際競争力の強い輸出関連分野に牽引された経済成長の果実を、政府が農業や中小小売業、建設業など地方の国際競争力の弱い分野に対する補助に回すということで、富の再分配、均衡ある発展ということをやっていたわけです。ただ、その間、地方から大挙して都会に出るという人口移動が起きたわけです。過密と過疎、あるいは公害のような経済成長の負の側面が問題化してきたのですけれども、政府はそれに事後的に対策を講じてきたというところだと思います。

4 政治

 当時の政治ですけれども、社会党ができて、自民党ができて、55年体制・保守と革新の対立の構図となりまして、これを「国内冷戦」と呼ぶ言い方もあります。政権与党であり続けた自民党は、ソ連・東側に対抗すること、そして日本を社会主義化させないことを存在意義として政権与党としてあり続け、日米安保体制と輸出主導型経済成長戦略を維持する現実的な政権運営を行いました。派生する様々な社会問題にも柔軟に対処して、社会保障の充実など福祉国家的政策も積極的に採用しました。

 そのようにずっと西側の一員としての日本を守り、成長させていくことをやっていたわけであります。ただ、多く指摘されていることは、外交や経済のかじ取りをは専ら官僚に任せていて、政治は経済成長の果実を地方の弱い分野に還元する行政プロセスに関与することを主としたと。地方の首長や議員、各種業界団体から与党国会議員につながる陳情・要望のネットワークがそのまま選挙マシーンになる構造ができて、しかも当時3人、4人が当選する中選挙区制の下、同じ自民党の議員が同じ選挙区で争うという状況で、派閥が形成され、陳情・要望に対するサービス合戦とその見返りに選挙支援を求める競争が激化し、不公正な行政、利益誘導や恫喝、政治資金に関する腐敗の温床になった。みんながみんなこういう悪いことをしていたわけではないのですけれども、そういう政治腐敗に引っ張っられるような構造ができてしまっていたということなのだと思います。

III 冷戦時代の日本の地方

 冷戦時代の日本の地方のあり様でありますけれども、この共生と自立の対義語である分断と従属を強いられていた、と言っていいのだと思います。その結果、地域としての主体性も失われぎみだったと思います。「西側の工場」としての経済産業構造の中で、輸出型製造業の集積が発展しなかった地域は、農業や中小小売業、あと卸売業とか建設業など、国際競争力のない生産性の低い産業が主力となっており、人口が流出しました。そうした地域は、経済成長の果実の国による再分配に依存せざるを得ず、日本の行政は中央集権、そして政治は利益誘導型、というのが支配的になったのだと思います。中央省庁の官僚を頂点とするピラミッド型の構造の中に地方は組み込まれ、地域も業界も縦割り行政による分割支配を受けました。まさに分断、分割であって、縦割り行政に応じて中央から地方に、あるいは業界毎に指令が行き、お願いが上がる、そういう構造ですね。そういう縦割りを取っ払った地域としての横のつながり、一体性というものが損なわれぎみで、その結果、日本中どこに行っても変わりばえのしない地方の景観が形成されていったと。これは非常に大雑把に整理してこうなっているので、もちろんそうではないところもあったのですが。

 一方、共生と自立の芽は、地方において細々ながら生き続けた。豊かな自然を守り続ける地元の努力がありました。古くからの村落共同体が維持されて、郷土芸能や年中行事が伝承されました。地方には、冷戦の論理やその背景にある近代の論理とは全く無関係に、人と自然との共生、人と人との共生を目指す営みがあり、共生が育まれる共同体の自立を守ろうとする努力がありました。普通に地方で農業をやっていたりすれば、いざという時には本気で助け合って一緒にやっていかなければ成り立ちませんので、自然に自立と共生的なものが地方には残る。地方というのは、そういうものなのだと思います。そういう要素は完全に失われることなく、地方の中に生き続けていたと言っていいと思います。

 ちなみに、冷戦時代のことをいろいろ整理してみたのですけれども、今いろんな場で日本のこういうところを変えなければならない、こういうところが悪いから駄目なのだ、と言われるのですが、例えば官僚主導とか、中央集権とかいうことも、「では何でそうなったのか」ということをよく考えてみることが大事なのだと思います。およそすべての悪は必要悪として生まれている、と言っていいのではないかと思います。それを一言でわかりやすく説明するのが、冷戦という構造の中で「そうせざるを得なかった」ということですよね。日本人が何か邪悪で、何か精神的に劣っていて、そういう中央集権をつくり上げてしまったとか、そういうことではなく、時代の要請として与えられた国際環境の中でそれなりに生き残り、またそれなりの幸せをそれぞれが掴み取っていくために、そういう構造になっていったのではないか、ということであります。ですから、ただただやみくもに自分たちの過去を否定すればいいというものではなくて、実はこういう理由で、こういう事情があって今までこのようにしてきたのだな、ということに気づけば、自然に今の新しい環境に合わせた適切な行動様式に変わっていくものなのだと思います。

 フロイトの精神分析で、耳が聞こえなくなる病気にかかった人が出てきて、耳に異常があるわけではないのですが、でも、なぜか耳が聞こえなくなった。その原因は、思春期の頃に何かショックを受けるような体験をしていて、そのことを無意識の中で抑圧するために、思い出して不快な思いをしないために、耳が聞こえなくなるというメカニズムで耳が聞こえなくなっていた。それをフロイトが精神分析でいろいろ過去のことを聞いたり、夢判断をしたりして、「実は思春期に何かそういうことがありませんでしたか」と尋ねたところ、「あっ、そういえばこういうことがあって、聞きたくない、聞きたくないと強く思った。そういう経験がありました。」ということにその患者さんが気づいたら、耳が聞こえないというのが治ったというのがフロイトの本には書いてあるのです。自分が気がついていない理由で何か変になっているということがあって、今まで気がついていない過去の経緯なのですね。その原因、理由というのは過去の経緯でありまして、自分が気がつかなかった過去の経緯に気がつけば、もうそれは治る。自然に治る。

 ですから、日本のこの失われた10年、20年というのを直していくには、何でそうなったかという過去の経緯をやはりきちんと検討、研究し、「あっ、なるほどこういう事情でこのようになってしまったのだな」というのがわかれば、そこから脱却することができるのではないかということを私は考えております。

 なお、そういう過去の事情がわかって、そのような冷戦構造に合わせた行動様式をとる必要はないのだなと気がついた時には、あとは地方に根差す人たちはそういう地方人らしい自立と共生の行動パターンが自然に出てくるわけで、それを素直にいろんな行動につなげていけば世の中全体がよくなっていくのではないかなというのが、今日のこの講話のテーマなわけです。

IV 地球時代(グローバル時代)の理念と政策

1 外交

 さて、これからどうしていけばいいのかというのが、IV地球時代=グローバル時代の理念と政策でありますが、わかりやすくこれも外交の話からいきますけれども、ソ連の脅威は無くなりました。今何が脅威かというと、北朝鮮のテロ、核、ミサイルはやはり脅威だと思います。あと中国が脅威だという説がありますけれども、正確に言葉を使おうと思えば、脅威ではないのだと思います。ただ、懸念ではある。安全保障上の懸念ぐらいではあるのだと思います。軍拡を進める中国の将来というのが、日本にとって安全保障上の懸念。この北朝鮮の脅威と中国の将来に関する懸念というのは、冷戦時代のソ連の脅威とは性質が全然異なると思います。

 どう異なるかと言いますと、アメリカが必死で日本をソ連から守ろうとしたのは、ソ連が日本を征服占領して日本を意のままに操る、そういう可能性があったからなのです。つまり、日本がソ連の衛星国になる可能性があった。現にソ連は東ヨーロッパとか周辺諸国をどんどん衛星国のようにして、ベトナムも衛星国になりましたから、日本もアメリカが守らないと衛星国になったかもしれない。そうすると、もう日本政府を挙げてソ連に尽くそう、ソ連のために頑張ろうとなって、日本の工業力をフル回転してソ連の武器を修理したり、開発したりし始め、世界の軍事バランスは大きくひっくり返ってアメリカにものすごく不利になる。そうなるくらいなら日本を爆撃してもいい、でも爆撃するよりは自分の味方にして自分に有利にしようということで日米安保体制があったのですけれども、北朝鮮がどんなに頑張っても日本全体を占領して、日本政府に北朝鮮の思いどおりのことをさせる力はありません。だから、アメリカは北朝鮮の脅威に関しては日本を本気で守ろうとは思いません。

 やはりテポドンが証拠だと思いますね。この岩手県上空をテポドンが越えていくというのは、私はものすごく嫌で嫌でしようがない。あれは落ちてくるかもしれないですからね。さすがに核とか、変な細菌兵器とかは積まれていないかもしれないけれども、胴体部分が落ちてきて当たりどころが悪ければ、下のほうに被害が出る。ソ連が同じようなことをやろうとしたら、これはもう絶対ミサイルが上がる前にアメリカは叩くと思います。キューバ危機というのはそういう対立で、キューバにソ連がミサイル基地を造ろうとして、アメリカは軍艦を出してそれを本気で阻止しようとしましたからね。でも、北朝鮮がテポドンを発射することは、アメリカはフリーパスなわけです。日本人が何人か死ぬかもしれないけれども、それは、アメリカは守らない。そういう意味では、北朝鮮の脅威というのは日米関係で守れる話ではなく、ここに書いているのですが、国連秩序の下での日本の自助努力によって克服されるべきものだと私は思います。日本単独で守ろうとすると、それは戦前と同じになりますから、あくまで国連の枠組み。先日、韓国の哨戒艇が沈没、撃沈された時に国連の安保理にかけたようにやっていけばよいということですね。

 ちなみに、そういう国連の枠組みを基本にして日本の安全を守るというのをきちんとやっていくためには、しかるべき国連決議があって、世界の諸国で何かPKOをやろうとか、多国籍軍をつくろうという話になったら、当然そこに日本も参加するという原則を確立しておかないと変なことになってしまいます。そういう外交における自立というのを、きちんと日本も考えていかなければならないのではないかなということであります。

2 社会

 そして、2社会でありますが、冷戦が終わってグローバル時代になっています。グローバル化というのは、その本質は、冷戦が終わって今まで鉄のカーテンの向こうにあった安価な労働力とか、そういったものが西側と自由に行ったり来たりできるようになるというのがグローバル化の本質でありまして、冷戦が終わったからグローバル化になっているのですね。冷戦のままだといつまでもグローバル化にはならないのです。だから、グローバル時代になったというのは、まさに冷戦が終わったということでもあるのですけれども、大変変化が激しい経済社会になってしまったわけです。それで、少数で起こした会社が一気に世界的大企業に成長することもあれば、長い歴史を有する優良巨大企業があっという間に破綻することもある。年功序列の終身雇用に安住できる可能性は少なくなっています。

 そこで、社会全体を支えるセーフティネットを厚く構築する必要があるというわけで、年金、介護、医療というような基礎的社会保障を、国が責任を持って支える制度を確立しなければならないわけです。ここを充実させていかないと、みんなが将来安心することができない、これがグローバル時代の経済社会の特徴であります。そして、職を失うということがどうしても出てきますので、雇用対策を充実させる必要がある。これは失業保険による現金給付は引き続き大事なのですけれども、教育・訓練の機会の提供を組み合わせることで、人的資源の流動性をむしろ経済社会の活力につなげる必要があります。リーマンショック以降のこの経済、雇用の危機で、今、岩手県が直面しているのは、まさにこういうことでありまして、失業保険で支えていくだけではなく、教育・訓練等によって、むしろこういうことがあったが故によりよい仕事ができるようになり、より条件のいいところに働けるようになる、というような工夫を各地方がしていかなければなりません。

 セーフティネットについては、年金、介護、医療の費用、子ども手当、学費、失業手当、生活保護費など、全国共通の現金給付は国が行うが、介護その他の高齢者のケア、地域医療サービス、子育てサービス、教育・訓練、貧困等に関する生活支援等々のサービス給付については、NPOなど「新しい公共」の主体とともに、地方政府が行うように、国と地方の役割分担を整理するのがよい。共生の理念の苗床である地方においてこそ、受給者本位のきめ細かで効果的なサービス給付が可能である。この辺の話は、去年のこの知事講話でも取り上げました。全国知事会、この国のあり方研究会でベースにした神野直彦先生と宮本太郎先生の知事会への報告書にも書かれていたことでありますし、その後この国のあり方研究会として、全国知事会としても正式に発表した報告書にもこういう趣旨のビジョンが盛り込まれております。

3 経済

 次に、経済なのですが、これが一番何とかしなければならないところなのですが、こうすれば絶対よくなるというのは、まだ私にも言い切れないのですけれども、手がかりのようなことを今から話しますと、そもそも「前川レポート」に書いてあったように、輸出主導型から内需拡大型に転換するというのが基本方針なはずなのですね。「西側の工場」として軍需工場みたいな役割を果たしていた経済から、もっと国民のためになるような経済。アメリカ、ヨーロッパが求めているものとか、そういう西側陣営が求めているものを生産する国ではなくて、国民が求めているものをどんどん生産するような、そういう国民経済にしていくことが基本方針なはずであります。資源が乏しい日本でありますので、原材料を輸入して加工貿易、製品を輸出するというのが合理的な戦略ではあるのですけれども、グローバル化で外国の安いものがどんどん入ってくるようになってきて、そうそう加工貿易だけで成長を維持することは難しくなっています。

 そこで、アメリカとかヨーロッパの幾つかの国がある程度成功しているのが、1つは金融業なのですね。アメリカとイギリスでは、経済成長の主力を工業から金融業に移すことに成功したわけです。日本は逆に金融関係はもう壊滅的になっていて、ここで大きく遅れをとっているのが、ここ10年、20年の失われた状態の大きな原因だと思っております。先進国にふさわしい金融力というものを日本で作っていくことができるかどうか、大手銀行には本当に頑張ってほしいところですけれども、今ちょっと考えているのは地域金融を発達させていくことですね。バングラデシュのグラミン銀行でしたか、ノーベル賞をとった、そういう貧しい人向けの特別な地域金融という技術が発展してきているのですけれども、何か地域金融というあたりから日本の金融力を立て直していくことができるかもしれません。

 次、情報化社会において情報通信分野が成長の原動力として期待されているということで、アメリカ、ヨーロッパなどでもソフトウエアとか、そういうIT関係が成長の原動力になっているのですけれども、日本は機械類の生産には強みがあるのですが、ソフトウエアやシステムの開発には余り強くない。いいソフトもないこともないのですけれども、全体として遅れをとっている。この背景として、日本人のコミュニケーションパターンが昔から閉鎖的なところがあったという指摘があります。冷戦時代の「欲しがりません、勝つまでは」というような、自分の所属する企業や組織において、とにかく上から来た指令をこなす、縦の関係の中で言うことを聞いて行動する中で、横の対等な関係の中で情報を伝え合ったりする、そういうコミュニケーションパターンが日本人は一層衰えてしまっているのではないかと。それがIT革命の中身の部分について、いま一つ日本が伸びていかない理由ではないか。

 ゲームとかアニメとかは結構世界に冠たるものがあり、これはこれで大事にしていきたいと思っているのですが、ただやはりゲームとかアニメは幾ら売れてもその額が、マイクロソフトのウインドウズとか、あるいはグーグルとか、あのようなシステムそのものの売れる値段に比べますと、はるかに低いのですね。だから、本当にITのコンテンツというか、中身で、ソフトで稼いでいくには、もっと本当の大人の仕事をこなすような大人のソフトを、大人の仕事の本質にかかわる社会的なと言ってもいいですね、社会的なソフトを作っていかなければならない。その辺も日本全体頑張らなければならないのですが、地方からそういうのを作っていけるかもしれません。

 次は、私の悩みを反映して、また改めて外国への輸出とかそういうのも大事だという話を書いてあるのですけれども、余りに日本国内は経済主体の活動が萎縮しているのですね。これだけの低金利、そして低課税、財政赤字が拡大しているということは、事後的に見れば取るべき税金を取っていないということなので、事後的に見ればすごい減税をしているということなのですね。でも、事後的に見てすごい低課税状態になっている、民間企業家にとっては天国のような、パラダイスのような日本において投資とか全然伸びずに悩んでいるし、消費も伸び悩んでいる、すさまじい萎縮をしているわけです。日本だけではなくてアメリカも今そういう状態になっているので、オバマ大統領は経済対策をもう一本打つべきだということがニューズウィークのメインの社説に載っています。財政出動をやれという話ですよね。アメリカのようなところでさえ不景気の時にはそういうメンタリティーになるのだから、より慎重で物事を丁寧に進めたがる日本人が、これだけの不景気、ゼロ成長の中で規制を緩和してどんどん自由化していけば民間が思い切って活動する、なんていうことにならないというのは、至極当然のことだと思います。今はやはり自由化とか、規制緩和とかだけやっていればいいという局面ではなくて、景気を下支えするような公的な事業の展開、公的支出の出動、また公によるいろんな事業活動のサポートとか、ただそういうのを国単位で行っていくよりは、地方、さらには県の中の広域単位できめ細かくやっていくことが成功の秘訣なのではないかと思います。

 ですから、今政治の議論で公務員がそんな民間経済に介入するなんてけしからぬ、公務員はもういなくなってしまえ、という議論もあるのですけれども、そういうただただ自由化、規制緩和すればいいというのは間違いですよね。むしろこの20年、そういうことをやって失敗したところが大きいと思います。むしろ地方の現場において官民一体となった、そこに学も入れば産官学ですけれども、そういうきめ細かい丁寧な成長戦略、成長戦術、また成長のための行動というものが必要なのではないかと考えております。経済、これをやれば絶対うまくいくというのがなかなか無いと言ったのですけれども、要はそういう地道な努力の積み重ねが正解なのではないかと思います。

 岩泉で食用ホオズキの生産を進めているお店が出ましたけれども、食用ホオズキがいいなんていうのは、県で決定して全県にやらせる、まして農水省で決定して、日本全国食用ホオズキをつくれなんてやったら逆にうまくいかないわけですね。それが本当に地域の中できめ細かく官民一体になって地域資源を発掘、新しい種を植えたりしていかなければならない。そういう時代なのではないかと思います。

 財政の問題についても書いていますが、これはちょっと時間がないので抜かしてしまいましょう。

4 政治

 政治についても時間がないので省略しますが、政治については、要は冷戦時代の保革の対立、右と左、自由主義、資本主義対社会主義の冷戦時代の右と左の対立構造というのが、未だに日本の政治関係者の頭に強く残っていて、セーフティネットを充実させながら自由を実現するという、右と左の政策の組み合わせみたいなものが発達しないということが、これもまたここ10年、20年の失敗の原因なのだと思います。特に今までの冷戦時代の成功体験から、社会主義的なものは排除していくというのがセーフティネットの充実を遅らせて、なかなか事態が打開できないようになっているのではないかなと思っております。

V 地球時代(グローバル時代)の地方

 最後のページにいきますけれども、地球時代(グローバル時代)の地方ということで、最近NHKの教育テレビで毎週日曜の夕方にやっていたのですけれども、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の「正義」の授業、この授業の内容を本にしたものも世界中で売れています。日本では「これからの正義の話を始めよう」というタイトルで本屋さんに売られています。英語では、「Justice(正義)」というタイトルなのですけれども、日本語では「これからの正義の話を始めよう」という題になっています。これ大変おもしろいなと思ったのですけれども、アメリカ発のグローバルスタンダードを真っ正面から批判しているのですね。功利主義と自由主義の組み合わせでずっと来ていた「アメリカン・スタンダード」、これではだめなのではないかと。リーマンショックもやはりこういう功利主義と自由主義だけの組み合わせということが破綻したのではないかということで、共同体の価値に根差す徳を尊重しないと正義は実現しないのではないかという共同体主義、英語では共同体主義者をコミュニタリアンと呼び、共同体主義をコミュニタリアニズムと言うのですが、コミュニティを大事にしようという発想ですね。これは、大変おもしろいのですけれども、いわば地方から今の「グローバル・スタンダード」の破綻を繕い、立て直すことができるのではないかということをマイケル・サンデル教授は示唆しているわけであります。

VI おわりに

 最後おわりにのところで、主権という言葉について分析をしてみたのですけれども、主権という言葉は英語で sovereign(至高の統治主体性)という意味ですね。これは、スーパーレイン、サバというのはスーパーという意味なので、レインというのは支配する、統治する。この上ない一番の統治の主体、またはその主体性というのが主権ということなのですが、まさにキリスト教的な「神」のイメージで西洋文明ではイメージされています。初めは、それは神様が持っていて、人間はそれに従っていればいいという感覚だったのですけれども、だんだん皇帝陛下がローマ法王に認証され、神から与えられた主権は皇帝陛下が持っています、いやいや各国国王も持っています。王権神授説というものですよね。市民革命で国民がその主権を奪還しまして、神の前に平等なすべての国民がその神に由来する主権を持っているという感覚。ちょうどその頃、ヨーロッパは複数の国々が勢力均衡して生きていこうというような体制ができていたので、それぞれの中小の国々に主権があって他の国から内政干渉は受けない、外交、軍事は自由に行うというような国家主権ということと、国民主権がほぼ同じ時代に成立したのです。

 日本人の感覚からすると、そういう神様から与えられた主権、だから大事なのだ、みんなで大切にしましょう、という説明を受けても、なかなかすとんと来ないと思うのです。私は来ません。ですから、日本人が本気で主権ということをイメージして、本気で主権を大事にしていくために改めてよく考えてみると、主権というのは自然の賜物なのではないかと思うわけであります。自然から生命が生まれ、そして人間が登場し、人間に意志が宿り、そこに主権が認められる。自然のすばらしさ、生命のかけがえのなさ、人間の尊厳、それらを基礎として主権というものが個人に認められるので、自然や生命や個人の尊厳をないがしろにする者は主権者たり得ない。環境を破壊する、生命を損なう、イコール平和を乱す、そして人権を尊重しない人は主権者ではあり得ないということで、この共生と自立の理念を内在する主権概念。神様からもらったという説明だと、自然破壊してもいいやとか、必要であれば戦争しても構わないとかいうようになってしまいがちなのですよね。突き詰めれば、自然だって神様の創造物だから大事にしなければならないし、戦争はやはり神様の前ではやってはいけないという、突き詰めればそういうこともあり得るのでしょうが、ただ歴史的に起きていることは、神の名のもとに人間が一番偉いのだから自然は征服しても構わないとか、戦争は神に逆らう者は滅ぼしても構わないということが西洋の歴史上現実に起きてしまっているわけです。そこへいくと、主権は自然の賜物という考え方をすると、だから当然、自然は大切にしなければならないし、命も大切にしなければならない。とてもとても主権たる者、自然破壊や戦争など行っては駄目に決まっているだろうというような、ちょうど日本国憲法的な考え方につながるのですけれども、それこそ日本としての主権ではないかなと。

 そして国家国民の安寧と五穀豊穣を感謝、祈念され、自ら毎年田植えや稲刈りをなさる天皇の存在というのは、まさにその主権というものが自然に由来するということも象徴しているように思います。同時にこの日本では「一所懸命」という言葉があります。というのは地方のどんな田舎でも、あるいは田舎であればあるほど、そこに自然があって、命があって、主権の拠りどころが田舎にこそあるわけですよ。ここが王権神授説的な、主権は中央にこそあるという西洋流の発想と全然違うところだと思うのです。自然のあるところ、命のあるところ、そこに人間がいればそこに主権があるはずという、そういう感覚は日本だからこそ出てくるし、また日本人だからこそ、すとんと理解できるのではないかと思っております。実は、それは日本の中だけで大事にしていたのではもったいない、非常に優れた考え方だと私は思っていまして、時間になったのですけれども、岩手からこういう地域主権というものをきちんと育てて、組み立てて、そして日本中、さらには世界中に広めていくことができれば、新しいグローバルスタンダードの下で世界がもう少しいい世の中になるのではないかなと思っているということで、私の講話を終わります。

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