平成27年度部課長研修 知事講話

ページ番号1049972  更新日 令和4年2月9日

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とき:平成27年11月25日(水曜日)
ところ:岩手県公会堂 大ホール
演題:「岩手コモンウェルス構想」

知事講話 「岩手コモンウェルス構想」

 皆さん、お疲れさまです。11月も終わりが近くなり、年末の押し迫った感じが日に日に高まっています。しかし、年度のほうは、まだ4カ月以上、すなわち3分の1以上残っております。

 そして、今年度から始まる4年間というのは、岩手県にとって大事な4年間であります。まず、県の復興計画の後半の4年間であるということ、復興をゴールに向かって進めていく、そういう大事な4年間になります。そして、ふるさと振興、まち・ひと・しごと創生法に基づく総合戦略、これを今年度からスタートして、5年計画でありますので、これからの4年間というのがまずその大部分を占めることになります。そして、そういう4年間をこれから展開しながら、現行のいわて県民計画、県の総合計画の次の計画をつくっていかなければなりません。この4年間がいわて県民計画の最後の4年間になりますので、アクションプランをつくって、最後のフィニッシュを決めるわけですけれども、このアクションプランに基づく施策を展開することと並行して、その次の10年間の総合計画をつくっていく、そういう大事な4年間です。

 この総合計画に向けて、私たちは「幸福度」というものを指標に入れていこうとしています。そして、それはこれから4年間のアクションプランのほうにもある程度反映させていこうとしています。県の組織の中においても、また、岩手県民全体においても、そもそも幸福とは何か、どうすれば幸福になれるか、そういう議論を改めてしていく4年間にもなるということです。

 今日は、その参考になればと思って、題名は「岩手コモンウェルス構想」という名前になっていますが、幸福の話をしようということでもあります。講演の最後のところでは、岩手コモンウェルスというものが幸福度を高める、そしてみんなで幸福になっていくのにふさわしい共同体のあり方であるというような結論になればと思っています。

 幸福について考えるというのは、人間が自分が人間だと意識したころから、古今東西ずっとやっているようなことで、改めてそれに挑戦するというのは非常に大胆なことでもあるのですけれども、一方でここに来て大変大事な必要なことでもあると思います。さまざま科学技術、文明が発達し、暮らしもよくなっていく中で、我々が本当に目指すものは何なのか、経済発展しさえすればいいのか、GDPの数字がよくなりさえすればいいのか、どうもそうではないだろうというような風潮が広まっていると思いますし、20世紀、いろんな方向に暴走していった人類が、21世紀、改めて人類のあり方とか目指す方向とか、何か一つに絞るというわけにはいかないのですけれども、おおよその方向性を共有していかないと21世紀もなかなかうまくいかないだろうと思います。

 その点、我々岩手県民は、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉を出発点にしていくことができると思います。そういう名言を、名言という以上の至言を残してくれた宮沢賢治には改めて感謝なのですけれども、岩手コモンウェルスというものもこの宮沢賢治の理想を実現するための共同体と位置づけてもいいと思います。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのは、非常に高い理想のような感じもしますけれども、同時にやはり人間の本質はそこにあるのであって、人間たるものそうでなければだめだということでもあるのではないかと思います。

 まず、幸福ということには、個人の幸福ということと世界の幸福ということがあるということがこの言葉には含まれています。そして、もう一つ、個人の幸福だけではだめなので、全体の幸福というものと個人の幸福が両立しなければならないという、そういう個人の幸福があり、全体の幸福があり、その両立、バランスの問題があるという、3つのことが宮沢賢治の言葉には含まれていると思います。

 これは、人間というのはしょせん一人、あるいは本質的に一人、今教育テレビの「100分de名著」でサルトル、実存主義を放送していますけれども、実存主義とまで大げさに言わなくても、人間は突き詰めるところ一人だというのは、これは一面の真実ですけれども、同時に人間というのは一人では生きていけない、人間は一人ではないということもまた真実であります。古代ギリシャ以来、人間というのは社会的動物だ、孤立的動物だということは、それはそれで人間の常識になっていると思います。そういう人間の個体性と、人間の集団性、人間には2つの面があり、それを両立させていく、バランスさせていくことが大事だという、これは理想であると同時に、またふだんから当然心がけて、そして実践していかなければならないことでもあると思います。

 この人間の個体性と集団性の問題というのは、古今東西、いろんな哲学、宗教が説明し、また、みんなが悩んできた、そして、いろんな説明が試みられたことですけれども、結論を先に言ってしまいますと、要は人間の個体性の問題というのは個体維持の本能、人間の動物としての個体維持の本能に位置づけられる、基礎づけられると思います。そして、集団性のほうは種族維持の本能ですね。これは、あらゆる動物にある本能で、それは人間にもある本能。まず、個体として維持されなければならない、生きていかなければならない、生き残らなければならないという本能です。そして、個体として生き残っていくためにもより強くならねばならないという本能、それが人間個人としての向上心という方向性になっていくと思います。まず、生き延びていること自体が幸福の基礎、そして、より生き延びるための力が強まっていくこと、そういう方向に個人が発展していくことがまた幸福であると人間というものは感じるのだと思います。同時に、種族維持の本能に根差して、種族として滅びないで生き延びていく、そして、そのためにも種族としてより力を強くしていきたい、これが集団としての発展の方向性。その発展の方向性に進めば進むほど幸福を感じる。

 そして、人間のおもしろいところは、その両立というバランスをとるということがまた問題であって、このバランスが余りに崩れていると幸福を感じない。自分だけが個人としてどんどん発展していっても、自分が属する集団がいつ滅びるかわからないくらい弱い状態であると、自分だけが幸福を感じることができない、そういうところが人間にはある。また、これは合理的な感じ方でもあるわけでありまして、集団として生き延びる可能性が高く、それを保証するほど強い力がないと、個人もいつ滅びるかわからないということが多いのだと思います。

 そうやって突き詰めていくと、個体維持の本能と種族維持の本能は便宜上区別されているのですけれども、突き詰めれば本質は同じで、生き続けよう、そして、生き続けていくためにより強くなっていこうというのは個体性と集団性の両方が相まって発展していく。その発展に人は幸福を感じるのではないかと思います。

 集団性のほうの集団というのは、ごく身近なところに限れば、夫と妻、妻と夫といいますか、子孫を残すための最小限の基本単位である男と女一組というところから始まって、やがてそれは家族という広がり、親戚も含めた一族、地域社会、部族とかそういう広がり、さらに村から国へ、そして、ローマ帝国とか○○帝国というような広がり、さらに人類全体みたいな大きさにまで広がり得ると思います。宮沢賢治さんの感覚からすると、人間だけにとどまるものではなくて、あらゆる生き物、そして岩石とか火山とかいうものも含んだ地球全体にまで広げ得るものでもあるのだと思います。ですから、種族維持の本能とか、種族という言葉を使いましたけれども、要は集団として生き残って、さらに発展していくという方向性ですので、それは狭い意味での種族を超えてどんどん広がり得る、そういうものだと思います。

 そういう個体性と集団性の発展の両立というのは、いろんな哲学、宗教でも追求されていて、一番わかりやすいなと私が思ったのは、「論語」、「孟子」の教えなのですけれども、仁と義という徳目を強調します。仁のほうが集団の発展につながる、集団を大事にするほうの徳目で、義というのが個人としてのあり方、個人としての発展を大事にする徳目ですね。そして、仁、義に加えて礼、智という2つの徳を合わせて仁義礼智という4つの徳目を孟子は重視するのですけれども、この仁と義をバランスさせていくのに礼が役に立ち、仁と義が大事なのだ、その両方を高めていかなければならないのだという認識として智が役に立つということを言っています。

 そして、孟子でおもしろい話があるのですけれども、音楽というのがこのバランス感覚を養うのに役に立つと。いい音楽は、仁の価値と義の価値がうまくまざっていて、そういう音楽を聞いているだけで仁を目指す気持ち、義を目指す気持ちがどんどん高まってくる。そうやってひとりでに仁と義を目指していくことができるようになるだろうということを言っています。性善説と言われる孟子でありますから、もともと人間はそうやって仁、義、それぞれの集団としての発展や個人としての発展を目指す、そういう方向性がおのずから備わっていて、かつ、そのバランスをとるということもおのずから備わっていると言っています。ただし、孟子の言っていることをよくよく見ますと、仁については具体的な例も出して、およそ人間たるもの、仁の目指す方向性というのは必ずあるだろうと言っています。井戸に子供が落ちようとしているのを見れば、誰だって飛んでいって助けたくなるだろうという話です。それを惻隠の心と言って、惻隠の心は誰にでもある。その惻隠の心というのが仁の兆しになるから、惻隠の心というのをきちんとより拡充していくようにすれば、おのずと仁を求める気持ちも強くなり、いいほうに進んでいけるだろうと。

 一方、義とか礼とか智については、そういう具体的な例は出していないのです。また、礼について、この仁と義のバランスをとる感覚である礼について、音楽もそうだという話をしているのですけれども、音楽というのは実は学びの対象、教育の対象というところもありまして、人間誰もが最初から音楽が上手であるということはないのです。いい音楽、楽しい音楽に反応するというのはあるかもしれないのですけれども、例えば、私も子供のころはクラシック音楽というのはすごく退屈だなと思って、ほとんど楽しめませんでした。今50歳を過ぎて、幾つかのクラシック音楽については、最初から最後まで寝ないで聞けるようになってきたのですけれども、実は音楽というのは演奏するのはもちろんですけれども、鑑賞するほうもある程度学び、教育を受けないと上達しないというところがあり、したがって仁と義のバランスをとる礼の感覚というのも、これは教わらないとなかなか上達しないものなのではないかと思います。

 ということで、幸福を目指していくに当たって、個人として発展していこう、また集団として発展していこうというそれぞれについては、かなり本能に根差して、一々教えられなくて個人としての向上心とか、集団のための博愛心、そういったものは、余り教えなくてもその辺は人間身についているし、発揮できると思うのですけれども、その両立、バランスをとるということについては、よくよく教えたり教えられたりしないとうまくいかない。動物の場合、個体維持の本能と種族維持の本能というのは、動物は全然悩まないで、文字どおり本能に従ってそれぞれ発揮して生きていき、また死んでいくのですけれども、人間の場合は発展の余地があるものですから、本能だけではなくて、いろいろそれをより良くするためにはもっといいやり方があるのではないか、といった具合に、考えて発展する能力が人間にはあり、その能力は裏返すと考え過ぎて失敗する危険性でもあるわけです。個人として発展する、集団として発展する、それに人間が時々失敗するのは、考え過ぎて失敗する。特にバランスのとり方がおかしくなって失敗するということが大きいのではないかと思います。集団主義的になり過ぎて、個人がないがしろにされていくとか、個人主義的になり過ぎて集団がおろそかになっていく。思えば人間の歴史というのはその繰り返し、集団主義のほうに偏ったり、個人主義のほうに偏ったりという行ったり来たりの繰り返しで歴史が進んできたのではないかなというふうに思います。

 仏教で慈悲という集団性が強調され、キリスト教でも愛という集団性が強調されるのですけれども、また儒教でも孟子は体系的に仁と義があって、礼と智があるとか言うのですが、そのもとになっている孔子の段階は、仁が一番みたいな感じになっているのです。紀元前500年ごろから紀元ごろにかけての世界というのは、それまでは村、農村社会で、生まれてから死ぬまでその地域でしきたりとされて、昔からやっているとおりにみんなやればよく、考えて悩む余地もなく、そういう意味では動物に近いといいますか、個体性の発展と集団性の発展のバランスが伝統的に安定していたわけです。都市国家が発達し、それはギリシャとか、あとその近くのユダヤ世界もそうですね、そして中国とかインドとか、そういう都市国家が発達して、個人主義的な行動様式が出てきて、かなりみんなどうしていいかわからなくなって、集団的に情緒不安定になっていく。そういう中で、やっぱり個人だけじゃなく集団が大事だというような哲学、宗教が出てきて広がったのではないかなと思います。

 でも、そういう哲学、宗教が余りにもかちっと、ローマ帝国の国教になったり、あるいは中国の帝国の国教になったりして、それが余りにかちっとなり過ぎますと、今度は個人主義も大事ではないかという揺り戻しが来る。典型的なのがヨーロッパで、ルネサンスとか宗教改革とか、そして市民革命、集団も大事だと言うけれども、でも個人をないがしろにしたら全然だめだろうと。やっぱり個人が大事にされるような世の中でなければだめだと。そういう発展がさらに近年社会主義陣営対自由主義陣営、東西のイデオロギー対立みたいなところにまで来ているのだと思います。

 20世紀は、冷戦で人類が核戦争で滅亡するかもしれないというところまで行ったわけですが、よくよく考えてみると経済で個人の自由が大事だということと、でも余りに格差が生じたり、また、貧乏な人にそういう自由なチャンスが実態として全然保証されないようではよくない、そのバランスをとらなければというのは、21世紀の今になってみれば当たり前なのだと思うのですけれども、当時はやっぱり個人なんだ、集団なんだという、そこで激しく対立をしてしまっていたのです。21世紀の行政のあり方とか、自治のあり方を考えて実践していかなければならない我々としては、そういう過去の歴史も反省し、そして宮沢賢治さんの言葉を原点として、個人の発展と集団の発展を両立させていくような工夫をしていかなければならないのだと思います。

 ということで、「論語」、「孟子」の時代には、礼という言葉、儀礼の礼、あるいは礼儀の礼、作法とか、しきたりとか、そういうものが個体性と集団性のバランスをとるものとされて大事にされたのですが、今はそれが民主主義の制度であり、そして市場経済の制度でもあり、そうした法律、経済、そしてまた暗黙の社会的なルールの形で、今、そういう仁と義を両立させるための礼が発展してきているわけでありますので、これらを今の時代に合わせてうまく調整していくことで、そのときそのときの時代に合った個体性と集団性の発展の両立ということを実現していく、そういう方向の上に幸福度というものは計ることができるでしょうし、またどのくらい幸福になっているかということも判断していくことができるのではないかと考えています。

 そういう幸福度とか、それから幸福の定義とか、そういうのはもっともっといろんな議論を県民的にしていく必要があると思いますけれども、それらの基礎になる考え方として突き詰めていくと、個体性と集団性の両立ということがひとつ目安になるのではないかということが今日の一つのテーマです。

 それがどうしてコモンウェルスなのかということですが、岩手県、県と言いますが、県という言葉はもともと古代中国の郡県制の県、これはイコール中央集権の一機関という意味なのです。周の封建制、秦、漢の中央集権と世界史に出てくるのですけれども、秦とか漢がそれまでの周の封建制の地方分権のやり方を改めて、中央集権でいこうというときに地方を再編し、中央から地方官を派遣していくのですが、そのときの単位として郡があり県がある。だから、県というのはもともと言葉の意味からすれば、中央集権制度のもとでの中央の出先という意味なのです。だから、明治政府が県という言葉を使い始めたわけですけれども、そういう県という言葉はいかがなものかという思いを私は知事になってからずっと心の隅に持ち続けていました。

 英語でプリフェクチャーと言うのですが、このプリフェクチャーというのも中央集権の一機関という意味でありまして、ナポレオン時代にナポレオンがフランス中央集権化を進めていったときに、地方を統治する地方官のことをプリフェクトという名前で呼び、プリフェクトが治める地域だからプリフェクチャーというような、中央集権ありきの名前なのです。これもたぶん戦前、明治政府が県という言葉を使っていたころからプリフェクチャーと充てるようになったのではないかと推測するのですけれども、では県のような地方自治体のことを、その本質、自治としての分権的な本質がぱっとわかるような言葉はないのかなといろいろと探していたところ、コモンウェルスという言葉を思い出したわけです。

 コモンウェルスというのは、アメリカが独立するころ、イギリスと独立戦争を戦うころですね、アメリカ合衆国独立宣言が出されたころに、独立13州のうち主力になっていたマサチューセッツ州、ペンシルベニア州、バージニア州の3つの州がコモンウェルスを名乗ったのです。コモンウェルス・オブ・マサチューセッツ、コモンウェルス・オブ・ペンシルベニア、コモンウェルス・オブ・バージニア、これは今でもそう名乗っています。ステートという英語があるのですけれども、ほかの州、ただしケンタッキー州はバージニア州から途中分かれた州で、ケンタッキー州もコモンウェルス・オブ・ケンタッキーと言うんですが、それ以外の州はステートと言っているのですけれども、最初のさっき紹介した3つはコモンウェルスと名乗って、今でもコモンウェルスと名乗り続けている。コモンというのは共通の、共同のという意味、そして、ウェルスというのは富とか財産とか、そういう共有の財産、共通の財産としての共同体あるいは自治体、自分たちはそういうものだと名乗ったのです。岩手もそうでなければならないのだと思います。県というのは、地方自治法とか法律上の用語なので、岩手単独で廃止は難しいのですけれども、英訳は、法律とか条例とかに基づいているわけではないので、岩手としてプリフェクチャーではなくコモンウェルスと訳すと決めればそうできてしまいそうですけれども、少なくとも気持ちの上で我々はコモンウェルスなのだと自覚しているということが大事なのだと思います。

 地方自治で有名な大森先生が、地方公共団体という言葉はなるべく使わないようにしようと言っています。地方公共団体も法律上の用語だから勝手に廃止はできないのですが、これも県というのは日本国の法律に基づく法律に根拠がある団体であって、それ以上のものではないみたいになっていてよくない。法律がなかったとしても、実態として存在し、共通の歴史、共通の価値観、そして、共通の財産として存在する共同体として、法律が、地方自治法がなくてもあるものなのではないか。それで、大森先生は自治体という言葉を使うのです。地方公共団体という言葉をなるべく使わず、地方自治体という言葉をなるべく使おうとする。その気持ちはよくわかりますし、私が岩手コモンウェルスと言うほうがいい、コモンウェルス・オブ・イワテ、イワテ・コモンウェルスと、少なくともそう自覚しているのがいいと言うのも、その大森先生の考え方と共通するところがあります。

 個体としての発展、集団としての発展、それを両立させていこうというときに、集団は、さきほども言いましたように、自分のことを考えても、まず夫婦という単位、そして家族という単位、一族、親戚一同、まき、そういう一族、また集落とか地域社会、また市町村とか県というような単位、そして国という単位があり、さらに広い、我々からすればアジアという単位とか、あるいは西側というようなくくり方もありますけれども、そして世界全体みたいになる。個人というのは、個人しかないからそこを起点にするというのはわかるのですけれども、集団性の部分をどこを起点にしていくかというのは、これはなかなか考えどころなわけですよね。20世紀の中ごろにおいては、世界中において国民国家を集団性の起点にしていこうというのが突出し、国家主義とか超国家主義とかになってバランスが崩れてしまったわけですから、ここで第4のバランスというのか、バランスとしては2つ目、個体性と集団性のバランスが大事と言っていたのですが、集団と集団いうバランスもまた大事なのです。集団間のバランスといいますか、集団の階層というとわかりやすいけれども、大きい集団が偉いとか次元が高いとかいう意味ではなく、便宜上階層構造と捉えて表現すれば、集団の階層間のバランスというのがまた大事だということなのです。

 そして、今そういう集団間の階層のバランスの中で、県に対する期待というのが高まっていると思います。20世紀、国家が突出し過ぎて、いろいろバランスが崩れて、それで20世紀は戦争の世紀になってしまったわけでありますけれども、そういったところを克服して、個人がきちんと発展し、またまさに世界全体がよくなっていくためには、日本の県という単位がより頑張っていかなければならないと思うのです。個人の自己実現、個人の発展をちょっと前までは国家が全てカバーするというような方向性があり、社会保障も国家がやるもの、そして戦争を防ぎ、また戦争が起きたとき戦う際も国家、のような、全てセットで国家中心でやってきたわけですけれども、社会保障について言えば、これは財政学者の神野直彦さんがよく言っているのですけれども、サービス給付のようなものは、これは地方でやったほうがいい。お金で解決するような、全国一律金銭給付で解決するような社会保障は国という単位でやったほうがいいのだけれども、現物給付、サービス給付的なものは地方がやったほうがいい。それから、働き方の問題もやはり地方がより役割を果たしていくべきだ。今ハローワークの分権の問題もありますけれども、働き方改革でも地方がより役割を発揮するべきだ。これも個人と集団でそのバランスが大事、両立が大事なように、県と国家もどちらかだけでいいということはなく、そのバランスが大事になってくるのです。おそらく市町村と県の間でも、やはりそういうバランスの問題があって、市町村がよほどやり損なったり、うまくできなかったりしない限りは、市町村というものもやはり21世紀大事な単位として期待がされ続けるでありましょうから、市町村と県のバランスというものも大事になってくる。そういったことが21世紀の地方をめぐる制度として念頭に置かなければならないことではないかと思います。

 20世紀の後半、改革論というのが流行って、何でもかんでも地方に移せばいいという話もあったのですけれども、全て国家が中心というのはよくないのですが、逆に国家を否定するような、何でもかんでも地方にというのも暴論なところがあって、そこは東日本大震災津波の緊急対策から復興まで経験している我々からすると、骨身にしみてわかっていることなわけですけれども、いざというときにはオールジャパンの力というのは非常にありがたいし、また我々も岩手県民、岩手県人とだけ考えたり、動いたりしているわけではなく、我々も日本人、日本国民なわけであって、あれだけの国家的、国民的な大災害になれば、我々も日本国民、日本人として、日本中の日本人、日本国民と力を合わせて巨大災害に立ち向かうということになっていくわけであります。そういう国、県、市町村、そういったところの間のバランスをとっていくというのも幸福度を高め、幸福になっていくための制度づくり、仕組みづくりとして大変重要であると思います。

 あと、個人と集団、個体性と集団性のバランスで1つ言い忘れたのですけれども、フロンティアが目の前にたくさん広がっている、例えば大航海時代のイギリスも、七つの海に乗り出して、どんどん未開の地に行って、そこの宝物をとってこられる、そこの産物を安く買いたたいて持ってこられる、そういうフロンティアが無限に広がっているような時代。あるいは大西部開拓時代のアメリカ、西部にどんどん進んで、進んだだけ自分の土地を獲得できる、進んだだけ金も掘れば農場経営もできる、牛を飼ったりもできるというときには、自由主義的なところに軸足を置く制度が有効なのです。ただ、当時も大航海時代のイギリスが行った先々のところに住んでいる人たちからすればひどい話だし、アメリカの大西部時代、いわゆるインディアンと呼ばれたネイティブアメリカンの人たちからすればひどい話ではあったのですけれども、いずれみんなが自由に、勝手気ままにやって、それでどんどんいろんなものが手に入るような時代であれば、集団主義よりも個人主義にウエイトを置いた制度が有効になるのです。

 一方、資源が限られてきて、食料とかエネルギーとか、あるいは平地の面積が足りないとか、いずれにせよ資源が足りない場合には集団主義的なほうにウエイトを置かないと財産とか何か取りっぱぐれる人たちがたくさん出てきて、世の中が成り立たなくなっていく。TPPの問題を考えると、あの発想はかなり古い昔の、何でも自由にやればやるだけみんながとってこれて幸せになるという感覚の時代の制度づくりで、今のような時代はもうちょい各国それぞれの国内事情にお互い配慮をしながら、今あるものを分け合って、お互いうまくやっていこうというような制度づくりのほうが有効なのではないかと思います。そういった制度づくり上の個人主義と集団主義のウエイトの置き方というのも大事であります。

 時間が来ましたので終わりますが、岩手コモンウェルス構想という話でありますけれども、幸福度を指標にし、県民の幸福というものを達成していくための共同体のあり方として、一つのアイデアを話してみました。まだ4年間ありますので、その中でさらにいろいろ議論を深めたり、広めたりして、4年たった暁には、岩手がより良くなっていくには、岩手以外の日本とか世界もより良くなっていかなければならないわけなので、岩手以外の日本全国、さらに外国にも参考になるような総合計画を立てられればと思います。それが宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならない限り個人の幸福はあり得ない」という、その理想を本気で目指す岩手県というあり方になっていくと思いますので、そうありたいなということで私からの話は終わります。ありがとうございました。

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