平成29年度部課長研修 知事講話

ページ番号1049967  更新日 令和4年2月9日

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とき:平成29年7月31日(月曜日)
ところ:岩手県民会館中ホール
演題:「幸福保障」

「幸福保障」

今日のテーマは「幸福保障」です。

1.幸福保障をめぐる動き

 行政が幸福という言葉に注目するようになったきっかけ、始まりはブータンです。ブータンの国民総幸福量という考え方、1972年に発信されているのですが、これに世界が注目しました。なぜこのブータンの国民総幸福量という考え方に世界が注目したかといいますと、1つには70年代、経済成長偏重への疑問が世界中に広がったからだと思います。1972年というのは、ローマクラブの「成長の限界」というものが出た年でもあります。経済成長だけでいいのか、また経済成長第一主義というものが成り立たなくなるのではないかという疑問は世界中に共有されていました。そこにブータンが国民総生産という言葉をもじったような形で、国民総幸福量という考え方を打ち出したわけです。

 経済成長はしているが、本当の豊かさは得られているのかという疑問、それは日本国内にも70年代に広くあったと思います。日本では公害問題が深刻になってきて、自然環境の問題など経済成長の一方で、大切なものが損なわれているのではないかという疑問が広がっていたと思います。経済成長だけでいいのかという疑問にぴったり当てはまる形で、ブータンが国民総幸福量という考え方を発表したわけです。

 また、並行して幸福研究というものが発展してきていまして、幸福の本質に関する研究が進む中で、幸福とは何かというような問題意識からブータンの国民総幸福量という考え方が注目されたということもあると思います。幸福のパラドックスという言葉がありますが、所得水準が高いほど幸福になるというのは所得水準が低いうちには当てはまるが、所得水準が高くなってくると所得がさらに高まっても幸福がさらに増えるとは限らない、そういう幸福のパラドックスとして指摘されているようなことが幸福研究の分野で議論されていて、そういう問題意識からもブータンの国民総幸福量の考え方は時代の要請に応えるところがあったのだと思います。

 国民総幸福量とか、あるいは幸福度とかいう幸福指標であります。この幸福指標をめぐる動きとしては、OECDがよりよい暮らし指標というタイトルで、かなり突っ込んだ研究をしています。それから、日本の内閣府も幸福度指標試案という題で研究を行っています。内閣府の幸福度指標試案という研究発表の中には、当時幸福指標を研究したり導入したりしていた自治体の名前が出てきます。東京都荒川区、京都府、熊本県、兵庫県、福井県、福岡県、そして三重県という名前が出てきています。

 ちょっと前のことでありますので、ここに岩手県の名前が入っていないのですが、岩手県でも昨年、幸福指標に関する研究会を立ち上げて、幸福指標の研究をし、そして導入を目指しています。岩手県の幸福指標に関する研究会、過去のOECDや内閣府を含むさまざまな幸福指標の研究例や導入例を参考にしています。

2.幸福に関する12領域

 そういった過去の成果を踏まえて、幸福に関する12領域を整理してもらいました。仕事、収入、居住環境、安全、余暇、健康、子育て、教育、家族、コミュニティ、歴史・文化、自然環境という12の領域です。幸福に関する12の領域ということで、これらが人の幸福感、幸福指標で言えば幸福度とか幸福量を決める要因になるであろうというふうに整理をしてもらっています。過去のさまざまな研究や導入の成果を踏まえておりますので、かなり包括的に漏れがないように、また余計なものもないように整理していただいたのではないかと思います。

3.行政になじむ幸福となじまない幸福

 ちなみに、それぞれの領域をいわば保障することができれば、幸福を保障することができるのではないか。そこで幸福保障という話になるわけですが、幸福保障の話を進める前に、まず行政になじむ幸福となじまない幸福があるのではないかという話をしたいと思います。そもそも個人が幸福を感じるときというのは、人によって全然違うだろうという指摘があります。そういう個人によって全然違う捉え方がある幸福というものを行政のミッションに果たしてできるものであろうかという疑問が、まず幸福保障という言葉を聞いたときに浮かんでくるのではないかと思いますが、そもそも幸福指標の議論として、こういう12領域というのが整理されている中で、行政が対象とすべき幸福の範囲をかなり絞っているというところがあります。個人的な経験をいろいろ思い返してみると、どういうときに幸福を感じたか、どういうときに自分の幸福が高まったと思うかという中で、例えばおいしいものを食べてハッピーになったとか、お酒をたくさん飲んで幸せになったとか、あとは温泉、お風呂につかってハッピーになったとか、そういう幸福というのがあると思います。しかし、幸福に関する12領域の中で飲酒とか温泉という言葉は出てこないわけでありまして、いわば瞬間的幸福、これは快楽という言葉を使ってもいいと思うのですが、そういう快楽、瞬間的幸福というものについては、これは個人的に、あるいはプライベート、私的に追求してもらえばいい分野でありまして、そういったところは行政が取り扱う幸福にはしなくていいのではないかというふうに考えられます。

 OECDや内閣府の研究においても、行政が対象とするのにふさわしい幸福の領域というのは、言いかえると生活満足度というようなところであろうというふうに言われています。幸福度というときに、生活満足度という言葉で言いかえてもいいような部分の幸福について、幸福指標の対象にしていくというのがあちこちで行われている幸福指標をめぐる研究や導入の基本的な考え方になっています。そういう生活満足度という言葉に言いかえられる幸福は、持続的幸福と言っていいと思います。12領域の仕事、収入、居住環境、安全、余暇、健康、子育て、教育、家族、コミュニティ、歴史・文化、自然環境、どれも持続的にそれぞれが満たされていないと余り意味がないような領域でありまして、これらが瞬間的に満たされればそれでいいというような領域ではありません。この12領域にあるような持続的幸福、言いかえると生活満足度の部分について幸福指標の対象にしていこうということであります。そして、幸福保障の対象になるのも持続的幸福、生活満足度ということになります。幸福指標という点からいって、かなり客観的な指標、統計化できるようなものがこの12領域でありますし、またアンケートなどで主観的な満足度イコール幸福度を聞くにもふさわしいような領域であります。

 それに対して、3種類目の幸福として人生観といいますか、あるいは宗教上の境地、言うなれば永遠の幸福というものもあると思います。赤毛のアンというお話のアニメ化されたものの最終回を見たことがあって、最後のアンのせりふで「神は天にあり、世は全てよし注」というのがあります。こういう境地、神とともにあるのだから全てはいいのだ、自分も幸せだ、みんなも幸せだみたいな、こういう宗教的な境地という幸福はあり得るわけですし、宗教的な観点からいえば、これはキリスト教であれ仏教であれ何教であれ、そういう境地を目指していくのが人間だろうということになると思うのですが、ただそういった領域には行政というのは介入しないほうがよく、これも個人的に、あるいはプライベート、私的に追求してもらう幸福だと思います。人生観、あるいは宗教上の境地、永遠の幸福と言えるような、そういう幸福についても幸福保障という対象にはしていかない、幸福指標の対象にもなじまないということであります。

 ただ、行政が絶対2番目の生活満足度イコール持続的幸福以外の幸福についてかかわってはいけないか、やってはいけないかというと、そうではない例も考えられます。例えばゆるキャラというのは、今や行政の事業の中で一つ確立した分野だと思いますが、ゆるキャラというのは見た人がハッピーになる、子供などゆるキャラにさわってハッピーになる、そういうものとしてゆるキャラはつくっているのであって、その点においては快楽というのは大げさですが、瞬間的な幸福を満たすような、そういうことを行政もする場合はあるわけです。ゆるキャラはただ人をハッピーにするためだけにやっているわけではなく、行政がゆるキャラをつくる場合には地域の知名度の向上でありますとか、あるいは政策分野に関連したゆるキャラ、3R推進運動にエコロルという岩手のキャラがいるように、エコロルはあくまで3Rの普及促進のために事業化されているゆるキャラでありまして、それを見てハッピーになるとか、さわってハッピーになるというのはあくまで副次的な効果なのでありますが、ただ副次的な効果として、ある程度瞬間的幸福イコール快楽を満たすというようなことも行政としてはあり得るわけです。

 人生観とか宗教上の境地、永遠の幸福に行政がかかわるケースというのは、いろいろあると思うのですが、わかりやすい例としては、去年希望郷いわて国体を開催しました。希望郷いわて国体の開催というのはさまざまな行政目的がある事業なのですが、そこに参加した人たち、選手として参加した人たち、あるいは郷土芸能を披露する役割を担った人たち、またボランティアとしておもてなしに参加した人たちでもいいのですが、これでもう自分の人生は肯定された、生きていてよかった、そしてこれからの人生も今回の経験から先に進んでいくことができるみたいな、そういうある種悟りの境地みたいなものを感じた人たちもいるのではないかと思います。これもそのことを目的に行政として国体を事業化していたわけではないのですが、副次的な効果として、そういう人生観あるいは宗教上の境地、言いかえると永遠の幸福というようなことを満たすような副次的効果を行政が事業を通じて実現することもあり得るということであります。

 ただ、いずれにせよ行政が目的として取り組んでいくのは、あくまで生活満足度イコール持続的幸福という部分であって、それについては幸福指標の研究や導入の過去の成果を参考にしますと、行政が正面から取り組むのにふさわしい領域であるというふうに言えるでありましょう。

 注 アニメ「赤毛のアン」の中では、「神は天にいまし、すべて世は事もなし」とされている。

4.幸福保障の根拠(共同体とリーダーシップのあり方)

 そこで、岩手の研究成果では12領域に整理されている生活満足度という意味での幸福を保障するということを行政のミッションにすることについて、行政のミッションというのはそもそも何かという本質論からさらに検討したいと思います。それは幸福保障の根拠の検討ということでもありますが、まず行政のミッション、そもそも共同体というのは何の目的でつくられているのか、何を目的にしているのかということを考える場合に、動物の群れのモデルというのが参考になると思います。それは、象のような草食動物の群れでもいいですし、またライオンのような肉食動物の群れでもいいのですが、動物の群れというのは、まずリーダーがいます。そして、リーダーのもとに群れを形成して移動して、そして共同体として存続していくわけですが、大きく2つの目的を持っていると思います。

 1つはリスクに備えるということです。危険に備える、敵が近づいてきていないか、また自然環境、餌が全然ないようなところに群れが進んでいっているのではないか、そういうリスクを察知して、そのリスクを回避していくというのが動物の群れの目的の一つだと思います。1匹1匹、1頭1頭でもそういうリスクを回避するということはできないことはないのですが、やはりある程度数がいたほうが、誰かがいち早く気づくとか、あるいは敵と戦わなければならないときはある程度数がいないと戦えなかったりしますので、リスクに備えるというときに複数で集団をつくる、共同体として臨むということが非常に有効であります。

 また、危機というのは外から来るだけではなくて、群れの中でけがをしたものが出てくるとか、病気になったものが出てくる、そして生まれたばかりの子供が非常に弱い、そういった内部のリスクに対しても群れというものは機能していくわけです。

 リスクといえば、対になるのはチャンスでありまして、チャンスに対応していくに当たっても動物の群れ、集団で共同体として当たることが有効であります。水や食べ物を察知する、これも1匹、1頭で探すよりも複数でいたほうがより発見しやすくなるでしょうし、またよい環境の中に集団で向かっていく場合、縄張り争いとかも生じるわけですが、やはりある程度集団でいればそういった縄張り争いにも対応できるということであります。

 共同体とリーダーシップのあり方、人間の場合もそういう動物の群れと同じであって、リスクとチャンスにいかに対応していくか。そこが目的であって、リスクに対応していくことを安全保障といい、チャンスに対応していくことを生活保障と呼びますと、安全保障、生活保障をあわせたところに全体として幸福保障というようなことができるのではないかなというふうに思います。

5.幸福保障の根拠(自由競争・自己責任との関係)

 そして、人間共同体が幸福保障をミッションとしていこうとするときに、自由競争、自己責任論との関係でそこまでやるのかという疑問があり得ると思います。古典的な自由主義、また新自由主義の考え方でもあるのですが、行政のミッションというのは個人の自由には極力関与しないで、必要最小限の制度の維持とか、また治安の確保をやっていればいいのだ、むしろそこにとどまるべきだというような考え方です。そういう考え方は昔からあったし、今もあるのですが、よくよく考えてみますと、財産のように自分で獲得したように見えるものも、実は環境や運の要素も大きいわけです。

 これは、サンデル教授が熱血授業の番組の中で盛んに話していたことなのですが、サンデル教授はアメリカに根強い極端な自由主義や、また極端な市場原理主義の考え方に疑問を呈して、例えばプロバスケットボールで大成功して、ものすごい巨額の収入があるような人、でもそれは全て自分の力で獲得したのかというと、決してそういうことはなく、スポーツ選手として成功していくような道を進んでいくに当たっては、さまざまな国や地域の教育の制度であるとか、あるいは親の社会的、経済的な状況、そういった環境や、また運・不運といった要素にも助けられて今の自分になっているのであって、それを全て自分で獲得したように考えるというのは現実的ではないのだということをサンデル教授の正義論の中で語られていました。

 また、特に現代社会は相互依存が大変深まっていて、他者の幸福が自分の幸福につながり、また他者の不幸が自分の不幸につながる、そういう中で自分だけが他者と関わりなく幸福になっていくということは現実的でないという実態があると思います。まず、経済的にお金を稼ごうとした場合、周りにお金を持っている人たちがいないとお金を稼ぐことはできないわけでありまして、自分だけが豊かで周りが全て貧乏であれば、そこで経済的に成功しようというのは極めて困難になるわけです。

 また、テロの問題、今地球上どの国のどんな人でもテロの危険性というのは常に意識していなければならないようになっていますが、これもそもそも中東や中央アジア、そういった一部地域での貧困でありますとか、また差別でありますとか、そういったものがテロリストの温床になっていて、そういった遠く離れたところでの人たちの不幸というものが回り回って自分に対するテロとして回ってくるかもしれないという、そういう時代になっています。

 したがって、行政のミッションとしても、やはり個人の幸福というものを保障するには、社会的に全体の幸福を保障していかなければならないし、自己責任、自由競争で勝手に個人が幸福を獲得できるというような状況には現代社会はないのではないかというふうに考えます。宮沢賢治が「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」ということを述べているわけですが、これは理想を語ったというよりは、かなり今リアリティのある、現代社会の本質を言い当てているような言葉ではないかというふうに思います。

 したがって、幸福保障というのを行政のミッションとして進めていくことがやはり正しいのではないかということが、行政のミッションとは何か、共同体の目的とは何かというようなことの検討からも言えるのではないかと思いますが、さらに幸福保障の理念に関する検討を民主主義の本質に関する検証を通じてやってみたいと思います。

6.幸福保障の理念

 日本国憲法の第13条に、国民の生命、自由、幸福追求の権利はこれを保障するというふうに書いています。生命、自由、幸福追求の権利の保障というのは、そもそもアメリカ独立宣言に書かれている言葉であります。アメリカ独立宣言に人々の生命、自由、幸福追求の権利は保障されなければならないということが書いてありまして、幸福保障とまでは書いていないのですが、幸福追求の権利を保障するというのは、いわば民主主義の原点からスタートしていることであります。

 相互依存が高度化している現代におきまして、実質的に幸福追求権というのを保障するためには、追求の権利というところに的を絞って保障しようとしても難しく、さっき言ったように幸福の保障というところまで踏み込んでやっていかないと、幸福追求権の保障ということができないようになっているのではないかと思います。

 幸福追求権の保障という発想は、アメリカの昔の西部開拓時代、フロンティアの時代、極端な個人主義といっても「大草原の小さな家」の物語のように家族単位でどんどん西部に行って、何か危機に直面しても家族単位で対応するとか、そういう極端な個人主義の時代においてはそういう幸福追求権の保障という言葉になっていくのでしょうが、現代社会のような相互依存が高度化しているようなときには、社会的に、集団的に幸福追求をしていかないとそれが実態的に保障できない、幸福保障というところまで踏み込んでいかないと保障できないということだと思います。

 ちなみに、何とか保障という言葉には、まず北朝鮮ミサイル問題などのときに語られる安全保障という言葉があり、また人権保障という言葉があります。それから、社会保障というのがあります。

 また、岩手県も時々いろいろ教えていただいている宮本太郎先生が、北欧の北ヨーロッパの福祉政策を紹介するとき、生活保障という言葉を紹介してくれているのですが、最近宮本先生は生活保障というのは共生保障まで踏み込まないとだめなのではないかといって、共生保障という言葉を使っています。

 あと、全国知事会が何かと頼りにしている神野直彦先生は、最近は参加保障という言葉を使っています。これも生活保障というのをさらに進める考え方だと思うのですが、参加保障という言葉を使っています。

 生活保障というのは、これは経済産業政策と福祉政策をあわせて、そこで雇用、働くということを保障しながら、いざというときの失業でありますとか、心身のふぐあい、医療や介護が必要になったときのケアでありますとか、そういった福祉政策と雇用政策、あるいは経済産業政策というのをあわせた形で生活保障というふうな言葉が使われています。生命、自由、幸福追求権というときに、生命に対して安全保障、自由に対しては、自由というのはイコール基本的人権ですから人権保障、そして幸福というところまで踏み込んでいくときに社会保障とか生活保障、参加保障、共生保障、結局、幸福保障というふうに図式化できるのではないかと思います。

 ただ、無理に図式化しなくても、逆に本質的には生命、自由、幸福というのは三位一体といいますか、不可分なものだと思うのです。およそ命あるもの、人間として生命を持つもの、自由イコール基本的人権というのが保障されなければならないですし、ただ自由であればいいというだけではなく、やはり幸福も保障されなければならない。生命、自由、幸福というのを一体として保障しようというときに、幸福保障というのはちょうどいい言葉であって、安全保障というところから出発して、人権保障という民主主義の理念がそこに加わっていく、さらに発展した形として幸福保障というふうに位置づけていけばいいのではないかと思います。

 ちなみに、アメリカ独立宣言の真ん中あたりのところには、幸福追求の権利というだけではなくて、幸福そのものが大事だというような部分もありまして、安全と幸福をより確かに保障する仕組みを発展させることが重要だということが書いてあります。安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる政府をつくる権利が人民にはあるというふうに言っていて、それで時のイギリス政府は安全と幸福をもたらすという観点から、これはもうだめなのであって、それにかわる新しい政府を自分たちがつくる権利がある。その新しい政府というのは安全と幸福をもたらす可能性がより高いから正当化されるということで、安全、そして幸福ということ、それをもたらす可能性がより高いということが政府の存在意義、それが存在する大義名分になるという考え方が独立宣言の真ん中あたりでうたわれています。そういう意味では、単に幸福を追求する権利が保障されればいいのだというだけではなくて、やはり結果として、より幸福になっていくようでなければ民主主義とは言えない、いい政府とは言えないという発想がアメリカ独立宣言のころからあったということであります。

7.幸福保障の主体

 幸福保障を徹底的にやっていこうというときに1つ気をつけなければならないのが、幸福保障はしてもらうものだというような誤解が広がらないようにということだと思います。幸福保障は、まず個人が自分で幸福を追求する、いわゆる自助があるだけではなくて、まず自助があって、共助と公助もあるということです。自助・共助・公助というのは、既に防災を始め、自治体の行政の中でも普及している考え方でありますが、幸福保障についても住民が自分で幸福を保障するという自助と、そして行政には頼らないが、お互いに助け合う共助、そして行政が幸福を保障する公助と、その3種類があるということをきちんとみんなに理解してもらう必要があると思います。

 宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉を参考にしますと、幸福を追求する人というのは他者をも幸福にしなければ自分は幸福にならないわけですし、みんなを幸福にしなければ自分も幸福にならないということであります。およそ幸福を追求する、自分の幸福を保障しようとする住民一人一人がほかの人の幸福も保障する主体になるのだと、相互に幸福を保障し合うのだということをきちっと確保していく必要があると思います。その上で行政による幸福保障としての公助もあるということです。

8.地方自治体の幸福保障

 地方自治体の幸福保障ということについて考えますと、もともとアメリカ独立宣言が出されたころ、今は州という日本語を充てていますが、当初コモンウェルスと呼ばれていた共同体、バージニア州とかマサチューセッツ州は今でも自分たちをコモンウェルスと名乗っているのですが、コモンウェルスというのを日本語にするとき、共通の富、共通の財産、共通の豊かさ、どう訳せばいいのかなと今まで悩んでいたのですが、幸福保障という観点からしますと、もう「幸共」ですね。幸福を共にする、そういう共同体と理解して、コモンウェルスは幸福共同体としての「幸共」だというふうに訳せばいいのではないかと思います。そうすると、日本の地方公共団体というのはさしずめ地方幸福を共にする団体としての「地方幸共団体」というふうに位置づけられるのではないでしょうか。

 そうしますと、公務員は幸福を任務とする員という「幸務員」です。公務員の公の字を幸福の幸にして理解するといいのではないかと思います。

 地方自治体の場合、地方公務員なのですが、幸福保障というのは一人一人の個人の幸福というところから出発し、そして個人の自助、さらに共助、そして行政としての公助が加わって幸福保障になっていくわけでありまして、共同体の規模が小さいほうがやりやすいのだと思います。したがって、幸福保障という理念や実践は地方自治体のほうになじみやすいと思います。そもそも動物の群れぐらいの規模が共同体、コミュニティとして機能するわけですので、人間の場合にもコミュニティ単位というものがまず幸福保障については非常に有効なのだと思います。

 ただし、リスクとチャンスということを思い出していただきますと、大きなリスクや大きなチャンスに対応するには大きな共同体のほうがいいのです。災害などが典型的なのですが、ちょっとした災害であれば地域のコミュニティ単位で対応できるのですが、大きな災害になってくると市町村、さらには都道府県という単位でないと的確に対応できないと。そして、さらに巨大な災害になってくると国家ぐらいの共同体が効果的になってくるということであります。

 チャンスのほうも、ふだんの衣食住にまつわるようなチャンスを発見し、それをつかんでいくには、コミュニティサイズが非常に有効なわけですが、ILC国際リニアコライダーみたいな巨大なチャンスというのが人類にはありまして、これはもう国家規模、さらには全地球規模の共同体で取り組んでいかなければならないという、そういうものであります。リスクの例としては、気候変動というのが地球規模の共同体で取り組まないと解決できない問題です。

 ただ、大は小を兼ねるで、では常に大きな共同体で物事に取り組んでいればいいのかといいますと、大きな共同体を的確に運営するには制度設計が難しいですし、また運用にも高度な技術や、また芸といいますか、アートといいますか、そういったものが求められます。やっぱりよほどの事情がない限り大きな共同体というのは、そこには頼らないようにして、できるだけ小さい共同体としてふだんの生活満足度の向上、幸福度の向上、イコール幸福保障ということに対応していくのがいいのだと思います。

 「青い鳥は家にいる」という話がありまして、青い鳥という童話、チルチルとミチルの兄妹が幸せをもたらす青い鳥を探してあちこち旅をするのですが、結局、青い鳥は自分のうちにいたという話です。幸福というのはどこか遠くに巨大な幸福、絶対的な幸福があるのではないかなというふうに考えがちなのですが、実は身近なところに幸福というのはあるものでありまして、そういう身近な幸福を大切にして、それを育てていって、どんどん大きくしていく。そのためには、まさに地方自治体、そういうサイズの共同体というものが有効なのだと思います。

9.岩手県における幸福保障

 岩手県は、東日本大震災津波の経験と、そして復興の取組を通じて、かなり幸福保障ということを既に実践してきていると思います。東日本大震災津波復興の基本方針の中に、難を逃れた方々の幸福追求権を保障するということをうたっていたわけですが、幸福追求権を保障しようとするとき、やはり実態として幸福を保障するような政策を既に我々は実行してきたと思います。幸福保障ということをミッションにする力が我々には既にあり、またそれにふさわしい今の我々の状態にあるのではないかなと思います。

10.復興と幸福保障

 先週の全国知事会議で、東日本大震災と復興に関する岩手宣言というのを採択していただいたのですが、その中で復興という言葉は、復興の「興」の字を幸福の「幸」にした、「復幸」という字を併記した形でうたっています。これはまさに我が意を得たりでありまして、東日本大震災からの復興をこれからさらにどう進めていくかというのを考えた場合、復興のさらなる展開というのを考えていく際に、幸福保障というミッション、復興の「興」の字を幸福の「幸」にした「復幸」、これを目指していくのだというふうに考えると、非常にわかりやすくなっていくのではないかと思います。

11.ふるさと振興(地方創生)と幸福保障

 また、我々はいわゆる地方創生、ふるさと振興に取り組んでいますが、ふるさと振興を成功させるためにも幸福保障の旗をしっかり掲げて、どこからでも見えるようにして、県民の皆さんからも岩手は幸福保障県だということが見えるようにする。また、東京にいる人たちや日本全国、あるいは海外からも岩手は幸福保障県、それが見えるようにすることで岩手に残る、岩手に帰ってくる、そして岩手にやってくるという新しい人の流れをつくることができるのではないかと思います。

 もちろん、ただ旗を掲げているだけではだめでありまして、実質的にちゃんと幸福を保障していかなければなりません。ふるさと振興の三本柱、岩手で働く、岩手で育てる、岩手で暮らすというそれぞれについて、ちゃんと岩手で働くことが幸福になるようにし、岩手で育てることが幸福になるようにし、岩手で暮らすことが幸福になるようにしていかなければなりません。それは我々にはできると思いますし、それをきちっとやっていけば、人口減少時代にそうそう岩手は悪いようにはならないというふうに思います。

 幸福指標研究の流れからは、今幸福保障というのを次期総合計画の中にどう位置づけるかということがテーマになるわけですが、そのことから離れて、今すぐここからでも幸福保障というのを県政に取り入れることができるのではないかと思います。県行政のあらゆる場面で幸福保障を心がけて、県行政を即一新することが可能なのではないでしょうか。

 また、県民の幸福保障、そして岩手にかかわる全ての人の幸福保障、できれば世界全体の幸福保障をミッションとするに当たっては、県職員の幸福保障ということにも留意したいと思います。働き方改革、あるいはイクボスということでもありますが、県職員の幸福保障ということが満たされないままでは県民の幸福保障ということもうまくいかないでしょうし、県民の幸福を保障するということが県職員の幸福にもなるわけではありますが、県職員一人一人の幸福ということにも我々は留意していく必要があるでしょう。

 働き方改革、イクボスなんていうのは当然といえば当然のことでありますし、そもそも行政のミッションとして幸福保障を掲げ、目指して実践していくというのは、そもそも民主主義の本質でもあるので、当然のことなのですが、それをしっかりとやっていくことで全国知事会議のスローガンだった「孤立社会から共生社会へ―地方から日本を変える―」ということがここ岩手から実現できるのではないかと期待しますので、頑張っていきましょう。お互いに幸せになりましょう。

 以上です。

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